「でも、ご安心ください。彼らの秘密作戦も四年以内に終わります」
如月が満面の笑みで付け加えた。これがもうひとつの重要な要素だった。こんなことは長く続けられない。でもたった五年でよいのだ。
「なぜだ? なにか始まるのか?」
「民主主義は選挙で殺されます」
その言葉を聞いた荒垣がうなる。「民主主義は選挙で殺される」は政治を研究している者の間では常識になりつつある。民主主義の根本である選挙が、それ自身を破壊する。きっかけになるのはポピュリズムのせいだ。大衆を扇動する者が選挙で勝ち、独裁化を進めてゆく。世界各地で起きた民主主義の後退のきっかけは選挙からだった。
だが一般に知られていることではない。如月はネット世論操作と兵器としての民主主義の調査では群を抜いて優秀だ。荒垣と佐藤が驚いているのがおもしろい。まさかこんなところで自分たち以外の専門家に会うとは思わなかったのだろう。
「世界の国政を左右する選挙はほとんどが四年以内に行われます。その結果、民主主義国の数はさらに少なくなり、民主主義を中心とした世界秩序は崩壊します。Fatebook は四年待つだけでいいのです」
「悪夢だ」
荒垣がため息をついた。
「海外の安全保障関係のレポートをご覧になったことがありませんか? 一昨年くらいから民主主義の擁護を優先課題に挙げるものが増えてきています。おそらく Fatebook は民主主義がもうもたないことを確信しているのでしょう。次の時代へ向けて着々と準備している」
如月が続ける。
「加えて申し上げると、これから異常気象、感染症、経済不安などが恒常的になり、世界の政情は不安定になり、さらに民主主義から離れる国が増えるでしょう」
箱崎がダメ押しした。民主主義はかつて人類が持った神話の中でも特別人気がある。しかし、魅力的である反面、経済的なコストや人間の犠牲や努力が不可欠だ。その余裕はもはや人間社会にはないかもしれない。
「よく知ってるな。その通りだ、すまない。諸君らを侮っていた。ここまでやるとは思わなかった」
違う。侮っていたのは Fatebook の実力だ。
「仕事ですから」
如月が荒垣の目をのぞき込んでにっこりする。この女はこういう時、ほんとに淫猥な表情を浮かべる、と箱崎は思う。
「所長、どうするんです? 軍部が犯人というよりやっかいじゃないですか。だって、これが真実なら世界中に Fatebook は騒動の種をまいていることになる」
「かつての死の商人と同じです。戦争の種を撒いて、兵器を売る。同じように騒動の種を撒いて、広告とデータを売る。ネット世論操作企業を世界中で育てて、世界に混乱を広げているんです。今の日本は Fatebook 社と同じことを得るものもないのにやっていることになります」
Fatebook はネット時代の死の商人……。もしかしたら、死の商人どころではなく、もっと危険で巨大な存在になろうとしているのかもしれない。それを考えると箱崎はぞっとする。
四人はしばらく無言になった。荒垣は腕組みして眉間に皺を寄せ、佐藤は落ち着きなく耳や頬をかきはじめた。如月は笑みをたたえて荒垣と佐藤を交互にながめ、箱崎はその如月の横顔を見ている。
「諸君らとは長いつきあいになりそうだ。我々は民主主義を守らないといけない」
やがて荒垣はそう言うと立ち上がった。
やはり荒垣は民主主義を信じている。もし長いつきあいになるなら、如月の極端な相対主義と対立するかもしれない。荒垣はまだ如月のことを頭の切れる女としか考えていないが、あの女の度を超えた相対主義は時に悪魔的ですらある。
「ありがとうございます。お褒めにあずかり恐縮です」
如月が立ち上がり頭を下げたので、あわてて箱崎もそうする。佐藤は呆然と腰掛けたまま、頬をかいている。
「行くぞ!」
荒垣に声を掛けられて、やっと佐藤は立ち上がった。
階段を降りてビルの外に出ると荒垣は大きく息をついた。
「金を出してもいいからエレベーター付きのビルに引っ越してもらいたいな」
額に汗がにじんでいる。
「いい運動になりますよ」
佐藤はやっと落ち着きを取り戻せた。いまだに信じられない。オフィスに戻ったら、すぐにシミュレーションモデルを見直して確認しよう。いや、だが、おそらく如月の言うことに間違いはないのだろう。打ちのめされた気分だった。言われて見れば、それが合理的な説明だということはわかる。そしていかにもザンダーバーグが考えそうなことだ。倫理や常識を全く気にしないあの男ならやるだろう。人間の尊厳を無視した悪魔の計算だ。
「韓国の“n 番部屋事件”といい、サイバー空間にはリアルとは違うルールがあるようだ」
荒垣がハンカチで額の汗をぬぐう。“n 番部屋事件”とは韓国で発生した性犯罪事件だ。テレグラムという SNS の団体チャットルームで、女性を脅かして撮った卑猥な動画を流して会費を徴収していた。“博士”と呼ばれる中心人物は犯行に直接手をくだしておらず、どこまで重い罪に問えるかが課題になっている。だが、なぜ突然韓国の事件を言い出したのだろう?
「会員が何人いたか知っているかね?」
荒垣はのろのろと歩きながら訊ねてきた。
「いえ」
「20 万人以上だ。被害者は七十人以上。アングラアダルトサイトというには規模が大きい。同種のサービスも多数できているようだ。取るに足らないと思われるような犯罪でもネットではその規模が急拡大し、社会に影響を与えかねなくなるというよい例だ。性やヘイトはネットとよく合う。彼女らの持っているサイバーミステリの視点が今後必要になるケースが増えるだろう」
そういうことかと佐藤は理解した。面倒なことになったと思う。ネットはあらゆるものをつなげてしまった。それがこの混沌を生み出してしまった。Fatebook は混沌の中に生まれた怪物だ。
「真夏に来たら死んでしまいそうだ」
さきほどから荒垣はハンカチで何度も顔を拭いている。かなり暑がりのようだ。今日は日差しが強いとはいえ、佐藤はそこまで暑さを感じていない。
「そりゃ、いけません。早く引っ越してもらいましょう」
意味のない軽口を叩きながら学芸大学の駅へ向かう。
改札を抜けた時、荒垣がひとりでうなずきながら佐藤に話しかけた。
「さっきの話は素敵だ。考えてもみたまえ。今の海外への支援政策がムダどころか危険ということがわかって、ネット世論操作対策を軸とした民主主義防衛策を作ることになる。新しい政策提言だ。新しい外郭団体も作れる」
荒垣は興奮した口調だ。
「荒垣所長…… あなたって人は……」
確かにそうかもしれないが、外郭団体なんか作っても新しい利権の温床になるだけだ。日本政府が作るサイバー関係の外郭団体はほとんどが単なる連絡組織で実効性に乏しい。実行部隊を増強せずに連絡組織だけ作っても、ただ机上の空論を繰り返すか、最終的に外部に丸投げするくらいしかできない。
それに果たして民主主義を防衛することができるのだろうか? そもそも日本政府、いや日本国民は民主主義を守ろうと考えるだろうか? 佐藤にはそう思えない。その点では如月に近い。日本人はこれまで自由や人権といった民主主義的価値を大事にしてこなかった。そもそも理解すらしていない。
「新しい民主主義か。なんだか楽しくなってきたぞ」
荒垣の楽しそうな声に佐藤は逆に暗澹たる気分になる。
「僕には暗い未来しか見えません」
「物事には常にポジティブな面とネガティブな面がある。ポジティブな面を見ればいいだけの話だ」
荒垣がかんらかんらと笑うと周囲の通行人がぎょっとした顔で見た。
了