【Webアプリケーションのセキュリティ 3】〜 コラム:「0か1」の発想からの脱皮 〜
前回までの記事はかなり抽象的な話であった。前回記事の、「フィルタリングソフトなどを用いてWeb閲覧者の行為を制御しようとした場合、Web閲覧者の身に起こるトラブル」という話題と、「Webページは人間が閲覧するものという前提が社会的コンセンサスとして成立してい
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Webアプリケーションは基本的には不特定多数の人間が使うことを前提にしたソフトウェアである。従ってユーザインタフェース部分には気を払わなければならないことが多い。しかし、プログラマーはコンピュータが 0と1 の2値しかとらない信号を扱うものとして徹底的に訓練されているがために、何もかも「0か1」、「onかoff」といった2値的な発想にとらわれがちになる。人間はアナログ的でファジーな要素の強い判断、行動メカニズムで動いているので、この0か1的発想で設計、実装されたアプリケーションのユーザインターフェースはトラブルの元になる。
「コンテンツセキュリティ」のための代表的なソフトウェアであるフィルタリングソフトは、一方でWebアプリケーションでもある。しかし、フィルタリングソフトについて、例えばインターネット協会の「ラベルビューロソフト」は、Web閲覧者の人権も、またWebコンテンツ提供者の人権を蹂躙するものとして激しい批判を浴びている[1][2]。
このようなトラブルが起こる一つの原因は、フィルタリングの判定に利用する「コンテンツ」が「0か1」的なものではないにも関わらず、「通過」と「遮断」の2値でしか反応しないからである。
ここで、本物のフィルターも「通過」と「遮断」の2値しかないと思われるかもしれないが、フィルタリングソフトは実際には「フィルター」ではない。というのも、通過するべきもの、あるいは遮断されるべきものの設計目標値もなければ設計指針もなく、フィルターとしての分離設計が全くなされていないからである。「この判断基準を用いれば何となく分離できるような気がする」という恣意的な判断を何の根拠もなく「分離できる」に言い換えて、何かフィルターしてるかのように偽装、断定しているだけである。分離された結果の成分等について明確な設計目標値を設け、設計製作がなされている本物のフィルターとは、似ても似つかない機能のものをフィルターと称するのは明らかに誤りである。従って、フィルタリングソフトを「フィルター」として捉えて考えても何も説明することはできず、何も得られるところはない。
さて、フィルタリングソフトの使用が人権蹂躙と見なされる原因の一つは、特定の通信を「遮断」してしまうからであるから、「遮断」することをやめればよい。社員や子供が見ることの不適切度の「高さ」や、不適切である可能性の「高さ」に応じて、見るのに要する手間の「多さ」を増やせばよいのである。
インターネット協会の「ラベルビューロソフト」は、Webコンテンツを5段階に分けるという極めて簡素なレイティングを行っている[1]ので、まずこれに応じた最も原始的な手間の「多さ」を提案してみよう。
誰が見ても問題ないというレベル0のレイティングされたコンテンツは、通常通りWeb閲覧できるようにする。問題の最も低いレベル1については、ブラウザの画面に「指定されたアクセス先はレベル1と判断されるコンテンツです。アクセスしますか?[はい]/[いいえ]」と表示され、ボタンを1回押すと対象コンテンツにアクセスできるようにする。次いで問題の高いレベル2は2回ボタンを押さなければならず、最高のレベル5と判断されるコンテンツボタンを5回押すことによってはじめてコンテンツにアクセスできる。
という仕組みである。この仕組みはWeb閲覧者にレイティング情報を提供するだけであり、閲覧者がコンテンツへのアクセスについて自分で判断することができる。何度も警告がでる高レベルのレイティングがなされたコンテンツに対しては、よほど重要性を感じている場合でなければ、おそらくWeb閲覧者面倒になってアクセスするのを避けるであろう。
office
office@ukky.net
http://www.office.ac/
[1] http://www.jca.apc.org/~sakichan/censorware/IAJapan/
[2] http://www.office.ac/tearoom/noframe.cgi#No.1065
(詳しくはScan本誌をご覧ください)
http://shop.vagabond.co.jp/m-ssw01.shtml
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